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公里碑 高ぶりもしないし 偉ぶりもしない 皇帝でもなければ 王侯でもない お前はたかだか一片の道標に過ぎないが 大きな道の傍らに屹立して 過ぎ行く人々に正しい道を指し示す お前が正しい道を指せば人々が道を誤る事も無い お前が指し示すのは正しい道と距離なのだ お前の功績は小さくは無い 人々は決してお前を忘れたりはしない ホー・チ・ミン「獄中日記」(1942):参考日本語訳/飯塚書店1969年発行ほか
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幼 名●グエン・シン・クン 本 名●グエン・タト・タイン(Ngyen Tat Thanh) 別 名■グエン・アイ・クオック(阮愛国)1919-1942・■ホー・チ・ミン(胡志明)1942-1969 生 年●1890年5月19日(公式)※諸説有り 没 年●1969年9月02日・→【ホー・チ・ミンの死去日について】 生誕地●ゲアン省ナムダン県アンチュ村(※現在のキムリエン村) |
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★生 涯 ホー・チ・ミンが生まれたのは1890年(生誕日に関しては異説あり)、官吏(父グエン・シン・サック母ロアン)の三男として誕生した。 幼名をクンと名づけられたこの少年は父が上級官吏の試験を受けるためフエに一家を挙げて移り住んだ時、仏インドシナ総督府のベトナム人官吏を養成する目的で作られていた国家学堂(クオック・ホック)に入学し学んだ。 しかしこの頃から祖国をフランス植民地主義の支配から解放すると言う『想い』を抱きつつあったホー・チ・ミンは南部へ赴き、一時ファンティエットで小学校の教師をしたのち、サイゴン(現ホーチミン)に行き技術者養成校に入学した。 これは彼が「祖国解放」と言う目的に達することを求めれば、外世界に出て長期的な展望のもとに行動する必要を認識し、その手段としてのすべき事を理解していたのでは、と言う点で注目に値する。 1911年6月にシャルジュール・レユニ運輸会社のボーイ募集に応募、コック見習いとなり出国したホー・チ・ミンはフランスへと向かった。フランスではルアーブル等で労働者として働き、また度々船員としてアフリカ・ヨーロッパ・アメリカを見てまわった。 そこで彼が学んだ事は、抑圧とはベトナムと同様に世界の様々な所に普遍的に存在し、祖国を救おうと思うならば同じく抑圧に苦しむ世界人民と連帯する必要があると言う基本理念を確立したことであると思われる。 彼は1917年よりパリに住みフランス社会党に参加。この頃よりグエン・アイ・クオックと言う名を使い、第一次世界大戦後の1919年にはベルサイユ講和会議に「アンナン人民の要求」を提出し一躍有名になる。 第一次世界大戦(1914-1918)が終結しフランスの属する連合軍側の兵士・労働者としてヨーロッパへ動員されていたインドシナの人々によりはからずも近代的社会思想がもたらされ、また『フランスで活躍するグエン・アイ・クオック』の伝説形成にも起因したと思われる。 1920年レーニンの「民族・植民地問題についてのテーゼ」に刺激され共産主義へと接近し、同年フランス社会党は、トゥール大会において分裂し第三インターナショナル加盟支持派が脱党、フランス共産党が創立されホー・チ・ミンも植民地解放を主張する第三インター派に組してフランス共産党の最初の党員名簿に名を連ねた。 1921年にフランス植民地民族連盟の創立に参加し、翌22年には雑誌「ル・パリア」を発行、また同時期に論文「植民地主義を裁く」を発表、国際的な民族解放運動の前衛として活動する。これは後のベトナムの独立運動の重要な指針になったとされる。 1923年モスクワで開催された農民代表インターナショナルに参加し執行役員に選出され、24年コミンテルン第五回大会に参加し東方部の常任委員に選出されて南方部門を担当することとなった。さらに25年にはアジア被圧迫民族連盟の創立に尽力、26年に中国へのボロディン軍事顧問団派遣に伴い随行、広東ではベトナムの進歩的青年が結成していた心心社(タム・タム・サー)の組織を改組しベトナム青年革命同志会と共産主義同盟を設立した。 その後、フランス・ドイツ・スイスなどで活動。1928年インドシナ共産党の創立に着手しコミンテルンより同党の創立の権限が与えられ、ベトナムの共産主義勢力を香港に招集、統一しベトナム共産党の創設を実現した。 ベトナム共産党は創立まもなく、インドシナ全域の連帯と解放を目指すと言う目標を掲げ(※ホーの路線とは異なる)インドシナ共産党に名称を改めた。急進的な活動を始めた同党は1930年9月にはゲティン・ソヴィエト区の樹立にその活動の頂点を成したが、これはフランス・インドシナ総督府の攻撃を受け瓦解しこの後は完全な地下活動へと移行することとなった。 この時期はホー・チ・ミンの生涯に大きな試練を与え、結核を患い1931年6月には香港にてイギリス官憲に逮捕され死亡説も流布したが、モスクワで闘病生活を送りながらレーニン国際大学で革命理論・被抑圧解放運動の研究に没頭した。1938年には再び中国に戻り中国共産党の根拠地延安より葉剣英率いる国民党支援の顧問団に書記兼政治委員として随行し南下した。 中国南部で精力的にベトナム亡命運動家グループなどから情報を収集したりして、ついに41年2月中越国境を越えベトナム側のカオバン省へと入った。この時ホーチミンは眼下に広がる祖国の風景を見て、足元から一握りの土を掴み、それに接吻し小袋に入れ懐にしまった、と言う。実に祖国を離れ30年、ベトナムを抑圧から解放する方法を求める旅であった。 ホー・チ・ミンはこうしてベトナム北部パクボの洞窟に拠点を置き日本軍と仏印軍の監視を辛抱強く耐え、党中央委員会第八回会議にて独立闘争路線を確立、民族運動組織の大連合を促しベトナム独立同盟(ドゥックラップ・ドンミン)を結成「ベトミン」の誕生を見た。 1942年8月にはベトミン運動が発展しつつあったカオバンを離れ、中国へ向かった。この時彼は、はじめてホー・チ・ミン(志明らかなる異邦人)を名乗ったのである。ホー・チ・ミンは以前の経験から中国南部を重要視しておりここにベトミンの後方拠点を置きたいと考えていたようだ。この構想は後の抗仏戦にも活かされることになる。しかし自国の共産主義の拡大に神経を尖らせていた国民党に拘束され43年9月に釈放されるまでにホー・チ・ミンは自分の足で立てないほど衰弱していた。この時期の詩集「獄中日記」は有名である。 再びベトナムへ戻ったホー・チ・ミンは北部諸省に解放区を樹立し、タンチャオ国民会議で前年ベトナム革命同盟会(※中国で主宰される)に引き継いで全国的な蜂起の発動を決定、45年の八月革命へと繋がり独立の時機をとらえるのに成功した。これはベトナムの解放が連合国によって与えられた物ではなく、ベトナム民衆が自らの手で勝ち取った独立革命でありその求心力となったのはホー・チ・ミンであったことに疑いない。八月革命の達成は仏印処理後のバオダイ(保大帝)政権を揺さぶり、政権を移譲するに至りベトナム民主共和国臨時政府が成立、9月2日独立宣言を発した。 しかしフランスはベトナムの独立を否定し軍隊による再侵略を企て、この情勢を鑑みホー・チ・ミンはフランスとの折衝を余儀なくされる。優れた政治力でハノイ予備協定(民主共和国の認定)に持ち込んだもののフランス側の傀儡政府によるコーチシナ分離に反発、フォンテンブロー会議でも毅然と対立し真の独立を勝ち取るため、武力闘争の決意を固めた。 そして以後、死に至るまでホー・チ・ミンの人生は「抵抗」のシンボルとして抗仏・抗米独立戦争を指導し「自由と独立ほど尊いものはない」(66年)の発言にその精神が集約、象徴された。ホー・チ・ミンは、自国の国民に対して大きな犠牲を求めた指導者であったが怨讐の的とはならなかった。これは彼の指し示した道が、すなわち「正しい道と距離」であり続けたことによると思われる。 ホー・チ・ミンの「救国」と「抵抗」は犠牲を伴い資本主義と社会主義の対立と言う足枷を負っていた、そして彼も生前、その呪縛から逃れることは出来なかったが、彼の指導したベトナムの戦いは南北分断という「冷戦構造」を突き抜け民族統一を果たし、その功績はベトナムのみならず、世界が「大国主導」から解き放れる条件形成に大きな役割を果たした。―ベトナムの戦いは世界構造に一石を投じたのである。 ベトナムとホー・チ・ミンの勝利は1969年に彼が死去するまでには達成を見なかったが、その死は世界の極めて多くの人に惜しまれた。彼は「たたかう」ことと「愛すること」を同時に体現し得た類希な指導者であった。ホー・チ・ミンは革命の道を示した。それは全世界に残した彼のメッセージであり、その大きな道はまだ里程の半ばであるのかも知れない。 →【ホー・チ・ミンの遺書】 →【ホー・チ・ミン関連の書籍を探す】 |

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★賛 辞 バック・ホーは、全生涯を祖国の解放に捧げた戦士だ。 民衆を愛し、全人類を愛した。 しかし、私個人の感想を言えば実に率直な人で、人間を最も尊敬している人だった。 ヒューマニストだった。 彼は偉大な人物だが、非常にシンプルな人間なのだ。 彼はベトナムの民衆に独立と自由、幸福をもたらす事だけを考えていた。 彼は始終「人間は金持ちの国と貧乏な国とで違うはずはない」と言っていた。 ベトナム革命は人間革命なのだ。 私はこれをホー・チ・ミン・ヒューマニズムと呼びたい。 ボー・グエン・ザップ(vo nguyen giap) ファン・バン・ドン(fam vang dong) 哲学者 故・吉野源三郎氏 毛沢東は詩の中で自分を帝王にたとえ、人民を見下している。 しかし、ホー・チ・ミンの視座は常に人民と同じところにある。 ベトナム共産党の一幹部 |
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★資 料(ホー・チ・ミン関連資料集) 1969.5.10署名 「遺書原文」 (赤字部分は加筆した部分・1975年発行書籍より) →【ホー・チ・ミンの遺書】 1969年発行「偉大なホーチミン主席−代々思い出されるだろう−」 |
