ベトナム歴史用・補足概文 


金星紅旗 解放旗
『ベトナムの歴史と人民軍』コンテンツと合わせてお読みください。北京亭同志会・人民依拠軍隊編集委員会

[ベトナム戦争に関する補足概文集]


●人民軍の創設

 ヴェトナム人民の武装軍は、民族解放戦争の戦火の中に誕生し、成長した。その萌芽は、革命的機運が高揚した1930〜31年の期間に、数ヶ月間権力を掌握したゲ・アンの諸ソヴィエト(※ゲ・ティン・ソヴィエト蜂起)によって創設された自衛部隊の別働隊に伴って出現した。  しかし、革命武装勢力の創設が実際に検討されたのは、第二次世界大戦の初期に、武装蜂起の準備がわれわれの最重要関心事と認められた時であった。軍隊組織および準軍事組織は、バク・ソン蜂起の時に、カオ・バン地区の革命基地で出現した。
 救国軍の小隊が創設されたのに続いて、1944年12月22日、小隊程度の部隊がつくられた。それがヴェトナム解放軍の宣伝小隊であった。非合法的に組織化されたわれらの軍事基地は、当時、北半部のジャングル内の、カオ・バン、バク・カン、ラン・ソン各省下の数県に限られていた。革命武装勢力について見れば、人民の自衛部隊と、完全に生産活動から解放された幾つかのグループと数個の小隊とから成り立っているだけのものであった。 それらの兵員数は急速に増加し、1945年の(3月9日)、日本のファシストによるフランス植民地主義者に対抗する武力行使(明号作戦)の時には、既に数千のゲリラ兵にまでなっていた。ヴェト・バクの6つの省の解放区となった農村地域に人民政権が樹立された時、既存の諸武装組織はヴェトナム解放軍を形成するために統合された。
 『人民の戦争・人民の軍隊/ヴォー・グエン・ザップ著(中央公論新社)』より引用

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●南ベトナム解放民族戦線とは何だったか
ある解放戦線兵士の述懐 ※引用・省略及び意訳しました。(補足)

 僕たちベトナム人にはここが祖国なのだ。米軍は毎日基地に戻るし、いずれ祖国にも帰るだろう。しかし、僕たちはここに住むしかない。ここが祖国で、1日1日を生き抜いて戦争に勝つしかないのだ。
 僕たちベトコン(解放戦線)は米軍より弱く、北ベトナム(正規)軍兵士ほど武器を持っていなかったから、頭を使う必要があった。罠を仕掛け、待ち伏せし、単純だが必殺の武器を使った。米軍兵士はのろまで不器用だった。彼等はジャングルを通り抜けるときは特に象のようだった。僕たちは3人1組で行動したから、武器も簡単で、物音を立てず素早く移動できた。米軍兵士を1人でも負傷させるか殺すかして、また1日戦えるなら、それが勝利だった。水滴が石に穴を穿つようにアメリカの軍隊を摩耗させるつもりだった。
 僕たちベトコンの暮らしは大変厳しく、ジャングルではなんでも食べた。魚醤(ニュクマム)を垂らした一鉢の粥がごちそうだった。情報将校の話では米軍兵士は基地でステーキにビール、それにアイスクリームを食べると言う。しょせん彼等にとっては、この戦争はその程度に過ぎないのだ。僕たちは何処に行くにも、銃のあるなしに関わらず「戦争」を背負って歩くのだ。
 米軍兵士は幸運だ。服務期間が終われば遥か彼方の祖国へ帰れるのだから。僕たちにはこの土地しか、自分たちの土地しか残らない。もしかしたら何も残らない。おそらく僕たちは心からも彼等が憎かったのだろう。

●住民感情
 アメリカ軍は農民たちに「敵か」「味方か」とか、「ベトコンはどこだ」と問い詰めてきました。でも、わたしたち農民は何を答えられましょうか。アメリカ軍を味方だと思っている人などはほとんどいませんでしたよ。
 ベトナムの国土で、アメリカ兵が、よくも私たちに「敵か・・・・・」などと言えたもんです。私は、サイゴン政府軍を通訳にして偉そうにしていたアメリカ兵の姿を思い出すと、今でも腹が立つんです。
 枯葉剤の攻撃を受けたマダーの森の住民の話『闘った人びと ベトナム戦争を過ぎて/大石芳野著(講談社文庫)』より引用

●解放戦線は「北の傀儡」だったのか
『歴史としてのベトナム戦争』古田元夫/大月書店(80p)より題名を引用

 解放戦線は「北の傀儡」だったのかと言う論争が古くからある。これは戦争が北からの人民軍のサイゴン入城をもって終結し、解放戦線が軍事的に実態希薄となっていた面や、初期のメンバーの多くが「ベトナム労働党南ベトナム中央局」に属していた事に起因すると思われる。
 しかし解放戦線という広範な統一武装闘争勢力を創設したエネルギーは党からでは無く、むしろ南部人民がサイゴン政府の圧迫に抗して作った物であった。北のベトナム労働党はそれを追認する形で南での武装闘争の発動を決した「十五号決議」を採択したのである。解放戦線は党(共産主義指導部)とは一線を画した働きを持ち、民衆に身近なテーマで訴えかけ大きな役割を果たした。
※注釈・ベトナム労働党南ベトナム中央局は南部中央局と略称される。また南部中央局とは公表名を南ベトナム人民革命党と呼んだ。
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独立宣言
9月2日●独立記念日とバック・ホーの死去日
 1945年9月2日はベトナムの独立記念日です。そしてホー・チ・ミンの亡くなった日でもあります。1986年、当時のグエン・バン・リン指導部がレ・ズアン指導部期の「遺書」書き換えと共に死去日に対する配慮が有ったことを認めるまでは、独立記念日と建国の父であるホー・チ・ミンの死去日が同じでは不吉だと言うことで、死去日を一日遅い9月3日としていました。
 ベトナムは大国の後ろ盾による衛星国としての独立ではなくベトナムの民衆自身が勝ち取った輝かしい独立だったと言えます。その独立記念日とバック・ホーの死去日が一緒とは確かに不吉だったかも知れません。近年バック・ホーは自分の誕生日を祝う式典等を嫌って独立同盟の結成日と自分の誕生日を故意に重ねて式典等から逃げていたのではと言う説があります。もしかするとバック・ホーは「自分の死を悼む式典等されるのであれば独立記念日と一緒にしてしまえ」と思ったのかも。まこと最後までホー・チ・ミンらしいと言うことでしょうか。そう勘繰ってみて独立記念日だけを祝い、心の中でバック・ホーの死を悼むことにしてみます。

●ホー・チ・ミン再評価
 ベトナム独立の父と呼ばれるホー・チ・ミン。何故今もそう呼ばれるのか。紛れもなく彼は共産主義者でしたがその求める物は民族自決、祖国解放であったと考えます(これは当時のアジア諸国等に共通したテーマでした)。 無論、ホー・チ・ミン自身もベトナムが社会主義建設に前進することは望ましいと考えていたと思われるのですが、当時のベトナムにとってそれは最重要課題では無く「過渡期」と表現された通り、長期的な展望の中での社会主義国家像でした。重点は服従を強いられ続けたベトナム民族の意識革命に置かれたのです。
 「自由と独立ほど尊いものはない」と言う言葉は真に味わうべきものだと思います。
 しかしホー・チ・ミン死後、1975年にサイゴン政府(南ベトナム)が崩壊しベトナムの独立が完成されると、長きに渡った救国闘争を勝利したと言う驕りに囚われ、南北融和を軽視し、また社会主義建設の閉塞に陥りドイモイに至るベトナムの試行錯誤はいまだ続いています。最近ベトナムでも伝統回帰ブームのようですが、その中で共産主義者としてでは無く独立の父としてのホー・チ・ミンの再評価が深まればと期待しています。
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●インドシナ休戦協定
 1954年7月21日スイス・ジュネーブのパレ・デ・ナシオでインドシナ休戦協定が調印された。このフランス領インドシナと言うのはベトナム・ラオス・カンボジアの事を指し、休戦協定は当然ラオス・カンボジアの問題についても同様であった。 休戦を協議するジュネーブ会議はアメリカ・イギリス・フランス・ソヴィエト・中国及びベトナム民主共和国・南ベトナム(バオ・ダイ政権)・カンボジア・ラオスが参加した。ベトナム民主共和国(ベトミン)代表だったファン・バン・ドンは即時ベトナムの独立、外国軍の退去など八項目を主張したが、フランス側と対立。ソヴィエト・中国の勧めも無視できず苦渋の南北17度線分割案(それも統一選挙を行うと言う前提をもとに)を飲まざる得なかった。 しかしベトミン側の要求にはもともとラオス・カンボジアへの言及が少なく、とりわけ地理的に遠くなるカンボジア共産勢力への「見捨て」ともとれた。この事は後のカンボジア共産党(クメール・ルージュ)のベトナム不信の一因になったと思われる。
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●ディエン・ビエンのベトミン側参加兵力
 ディエン・ビエン包囲戦に参加したベトミン部隊
歩兵第304師団分遣隊(第57連隊)南東戦区(イザベル陣地攻撃)担当
歩兵第308師団(第36連隊・第88連隊・第102連隊)北西戦区担当
歩兵第312師団(第141連隊・第165連隊・第209連隊・第154砲兵大隊)北東戦区担当
歩兵第316師団(第98連隊・第174連隊・第176連隊・第812重火器中隊)南戦区担当
※第176連隊の一部が南西方面より陽動攻撃を担当。
砲兵第351重師団(第45砲兵連隊・第165砲兵連隊・第237重火器中隊・第367対空砲連隊・第515工兵連隊)
 北西軍区予備
歩兵第302師団(第48連隊・第52連隊・第64連隊)ライ・チャウ方面

●「勝利は偉大であるが、始めに過ぎない」
 ディエン・ビエン・フー包囲戦がベトナムの輝かしい勝利となったとき、ホー・チ・ミンは前線へ送ったメッセージの中にある一文を加えていた。「勝利は偉大であるが、始めに過ぎない」と。
(ベトナム外交書院編/ホー・チ・ミン−人とその時代−を参照)
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●ベンチェ蜂起
 1960年1月17日のベンチェ蜂起は南部抵抗の大きな発火点となった。装備が乏しくても政府軍から銃を奪い装備しゲリラ戦を展開、女性は抗議デモへ向かった。南部では非戦闘の面での女性の活躍は目覚しく、後に「ロングヘア・アーミー」と呼ばれた。
 
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●アプバクの戦い
 米軍の特殊戦争戦略に決定的な打撃を与えたのがアプバク(アプバック)の戦いである。火力支援・航空攻撃の後、装甲車を立ててアプバクに侵入した南政府軍はわずか200名の解放戦線ゲリラの頑強な抵抗に遭い大きな損害を出し敗走した。
 『決定的瞬間は、リ・トン・バ(南政府軍指揮官―引用者注)の装甲兵員輸送車がアプバク前の土手を上がってきて、まさにゲリラを圧倒しようとするときに訪れた。ズンという名の分隊長がタコツボから飛び出し、兵員輸送車の機関銃手が見ている中を土手の上に立ち、その巨大な車両に手榴弾を投げつけた。タコツボの列に潜んでいた残る分隊の兵士やゲリラたちは、彼の行動に刺激された。 彼らも飛び出して手榴弾を投げ、バの兵員輸送車の乗員を爆風と破片でずたずたにして運転兵を恐怖に陥れ、車両を後退させてしまったのである』
 『ハノイ・サイゴン物語/ニール・シーハン著』より引用


アプバク戦勝記念メダル

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●コマンド「559」・59年5月突撃隊
 南部武力解放指令にもとづき、5月59年をコード名とした「559潜行部隊(bo doi len nam nam chin/ボゥ・トゥ・レン・ナム・ナム・チン)」が南部への補給回廊(後のホーチミン・ルート)の偵察・建設の任務を帯び、長山山脈の山岳地帯へ入った。559は南部解放のシンボルとしてベトナムではよく知られている数字である。
 初期の559部隊はジュネーブ協定に基づき北へ引き揚げた南部出身のベトミン活動家が主体となり、ジャングルを分け、山岳民族に協力を要請した。後に559はホーチミンルートの保守と建設部隊に与えられた部隊名となり、連隊・師団規模に増強され戦闘にも参加している。また戦争後も経済建設兵団として活躍しているようである。
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●中国人民義勇工程隊と中国軍後勤部隊の出動
 1965年4月はベトナム戦争の大きな転機となった。3月の米軍のダナン上陸、北爆開始を受け4月17日にベトナム人民軍総参謀部は中国軍総参謀部に至急電を送り、事前に想定し合意してあった後方支援を正式に依頼した。
 中国側も機敏に反応し、翌18日には「中国人民義勇工程隊」を結成し北部ベトナム各地の防御工事、鉄道修復を担当した。当初「義勇」という名称を使い、朝鮮戦争方式の自発的人民の行動とし、また中国独特の鉄道兵種ではなくより民間的な「工程隊」を命名した。 6月9日には拡大された「中国軍後勤部隊」が出動し第一陣の第二支隊が中越国境を越えた。その中には防空任務を帯びた高射砲部隊や通信施設部隊なども含まれた。
(注釈・中国軍の出動を公にする方針が消えたため「義勇」名称は必要無くなり消えた。)
これらの部隊はベトナム出動にあたって、中国軍の標章を全て外した。そのうち、国防施設の構築に携わる部隊は紺色の服に着替えての出陣だったが、ほかの部隊はベトナム人民軍の軍服に着替え、ベトナム軍人のトレードマークである緑色のヘルメットも被った。
 65年から70年代初めまで中国がベトナムに送った軍人の総数は32万人以上に達したが、その期間中、中国側とベトナム側はそれを正式に認めることは一度も無かった。興味深いことに、世界最強の情報網を持つ米側も、その情報を相当正確なところまでつかんでいながら、公式に発表しようとはしなかったのである。
ただ、中国が送ったのはほとんど後方支援の部隊であって、北ベトナム領内の任務執行に限定していた。中国は軍隊を送ったが前線には行かず(ホーチミンは「中国同志に守りを助けてもらい我々は余った兵士を南へ送る」と発言している)、米側はそれを把握して公表せず、一方で米軍は北ベトナム領内の中国軍を集中爆撃をし、中国軍防空部隊も相当数の米軍機を撃墜したのに黙ったままだった。まことに奇妙な戦争だったと言える。
 『毛沢東のベトナム戦争/朱建栄著(東京大学出版会)』より参考


決勝奨章(ホーチミン作戦記念章)
南部解放のため巨大かつ有効的な援助をし、北人民軍の留守を守った援越中国軍に対しても贈られた記念章

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