![]() ベトナムの歴史と人民軍 /文責・九月 清隆 |
| ■ The History of Indochina War (1941-1989) Viet Nam/Lao/Campuchia |
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民衆にはこころやさしく接しなければなりません。 民衆の力を育まなければなりません。 山奥の道をうがち、永続の基地にするようにです。 チャン・フン・ダオ将軍(1229-1300)
ベトナムの歴史・民族性 現在の正式国家名はベトナム(ヴェトナム)社会主義共和国。1945年9月2日独立。1975年4月30日南部解放。 首都ハノイ。日本から直線距離約3600km。飛行機で約5時間半。人口は7000万人を越え50以上の民族を抱える多民族国家である。主民族はキン(京)族(もしくはベト(越)族と呼ぶ)。言語はベトナム語が公用語で外国語では英語、フランス、中国語(特に北部で)などが多少通じる。しかし北部と南部で言葉も習慣も多少異なるので注意が必要。 これはよく「ハイバン峠を越えるとガラリと変わる」と言われる。 地勢的にはインドシナ半島東部南シナ海沿いをS字に形成している国家。元々ベトナム人は紅河(ホン河)デルタ地域から南進(ナムディエン・北属への歴史的アンチテーゼ)しチャンパ王国を併呑し、カンボジア王国を西へ追いこの領土に定着したのは18世紀半ば頃であると言われている。 その為、ベトナムにはトンキン=東京(北部)、アンナン=安南(中部)、コーチシナ=交趾支那(南部)と言う地域感情がある。それ以前のインドシナ半島は各民族の支配地域が流動的であり領土と民族の存続を賭けて紛争を続けていた。現にベトナム中部に勢力を維持していたチャム人(上記チャンパ王国)はすっかりベトナムに統合され、一少数民族となり現在は「ベトナム国民」の構成に属する。 この頃のインドシナ民族の紛争は文字道り民族の存亡を賭けた生存競争であり、こうして見ればベトナムは戦うことで「独立(ドゥクラップ)」を勝ち得ていた。しかし19世紀後半になるとアジアの諸民族に、植民地獲得を目的として欧米諸国が現れ、インドにはイギリス、フィリピンにはアメリカ、インドシナの場合はフランスが植民地化政策を推し進め、アジア諸国は失われた祖国を探す「独立と救国」の時代へと進んだ。 ←【関連】ホーチミンの物語 ベトナム人民軍創設期(1941-1954) ベトナム人民軍、その前身は越南独立同盟[ベトナム・ドゥクラップ・ドンミン]略称ベトミン(Viet Minh)−直接的にはその軍事部門、武装解放宣伝隊。1941年インドシナ共産党第八回中央委員会にて「民族解放闘争」を目的に結成される。←【関連文】 第二次世界大戦末期、ベトナムは仏・日の支配下(日本の緩衝支配、ナチスドイツに敗北した後のヴィシー仏政府と講和した為)にあり中国南部で訓練を受けた者が中心となり抵抗戦に参加。1945年太平洋戦争が日本の敗北で終結しベトナムから外国勢力が一時的に去りベトミン主導の下八月革命(9月2日独立)←【関連文】を果たした。 しかし元の宗主国フランスが再びインドシナ復帰(再植民地支配)を企図し第一次インドシナ戦争(ベトナムでは抗仏救国闘争)が勃発。 戦争当初近代的兵器、装備等で劣るベトミン軍は劣勢に立ち、主要都市は次々と仏側の支配下に入ったが中国国境付近の山岳地帯でゲリラ戦を展開、ソ連・中国の支援を受けて戦局を徐々に挽回。1950年代に入ると仏軍はインドシナの共産化を恐れたアメリカの援助を受け戦局打開の一大作戦を立案した。1953年11月20日仏軍空挺部隊がベトナム北部の盆地、ディエン・ビエン・フー←【戦域図】に降下し拠点を築き要塞化した。 ここはラオス領(※当時王政・フランス連合)に入る重要な道路に面しておりラオス側と中国との国境側のベトミン軍を分断する作戦(ナヴァール計画)を実行、補給地域より遠い辺境にベトミン主力を引き寄せ打撃を与えようと言う意図もあった。計画を察知したベトミン軍はボー・グエン・ザップ将軍に率いられた正規編成を持つ主力軍約四個師団強を集結させ仏軍を包囲下においた。 さらにディエン・ビエン・フー周囲の山に野砲を持ち上げ砲撃態勢を取り、地域民衆も後方支援に従事した。1954年3月13日ベトミン軍は攻撃を開始、仏軍側は防戦一方となり56-57日間の激戦の末、5月7日ついに降伏。これは被植民地国が宗主国に正面から戦いを挑み勝利した初めての例となった。←【関連文】 それによりフランス側の敗北が決定的になり1954年5月8日、ジュネーブ会議が開催され第一次インドシナ戦争は終結に向かう。しかしベトナムには後にアメリカが介入し第二次インドシナ戦争(ベトナムでは抗米救国闘争)に発展していきました。 第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)前夜(1954) 1954年7月21日、抗仏独立戦争(第一次インドシナ戦争)を勝利した独立同盟は旧宗主国フランスとのインドシナ休戦協定←【詳細】を調印した。 当初この会議は第一次インドシナ戦争の終結とベトナムの完全な民族自決を達成する目的で開催された。しかし既に介入の度合いを深めつつあったアメリカには共産主義指導層によるベトナムの独立を認めるわけにはいかなかった。 ちょうどこの時期は共産主義の国際的な浸透が始まっており資本主義陣営は危機感を深め、「ここで食い止めないと重大な結果を招く(ドミノ理論)」と当時は資本主義陣営(とりわけアメリカ)ではそう思われていた。アメリカ側から見れば「共産主義の横暴」なのである。当時よく喧伝されていた国際共産主義の陰謀など無かった事は後の歴史で証明されたが割を食ったのはベトナムであったように思われる。 会議でアメリカ(単独)によって作られたベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)の統一選挙の実施も行われる予定だったが、北側を代表したホー・チ・ミンに選挙では勝てないと認識していたアメリカと南ベトナム(バオ・ダイ政権)だけの拒否で実現を見なかった。 この時アメリカが民族国家ベトナムとホー・チ・ミンを認識できていたならば(少なくとも1950代までは可能だったと思われる)、後の20世紀最悪の戦争と呼ばれたベトナム戦争を回避出来えたのではないかと考えられる。 なぜなら回復が目指された「統一ベトナム」とは八月革命の熱狂を共有した空間、全てのベトナムに他ならなかったからである。 南ベトナムの政情不安と解放戦線結成期(1955-1960) 初期の南ベトナムの政情が不安定だった原因の一つが最初の大統領ゴ・ディン・ジェムの仏教徒への弾圧であった。当時のニュース映像・写真記録等でも抗議の焼身自殺をする僧侶の姿など残されている。 これはゴ・ディン・ジェム政権(サイゴン政府)のカトリック教徒への「特殊な優遇」が一因と言える。カトリック教徒が当時のベトナム人口一割程度だったにもかかわらずである。 加えてジェムの一族や「カンラオ」と呼ばれる側近のグループの腐敗が蔓延し、土地改革も「戦略村構想」に見られる通り土地に根づいた農民の感情を無視した(もしくは理解できなかった)政策で失敗を重ねた。1960年に入ると南ベトナム各地で暴動や武装蜂起←【関連・ベンチェ蜂起】が相次ぎ北ベトナムの対南政策に大きな影響を与えることになった。 同年、ベトナム労働党(1951年改称)拡大中央委員会においてホー・チ・ミン大統領の「南ベトナム人民を帝国主義から解放する」(十五号決議)という宣言を採択した。 それにより南ベトナムに派遣された第一書記レ・ズアンが南領内の反政府勢力と結び12月、南ベトナム解放民族戦線←【関連文】 ←【軍装】(議長グエン・フー・ト)がサイゴン北方の都市ビエンホアにて結成された。 その結成の経緯から見て初期の解放民族戦線は共産主義者の集団というものでは無かったように思われる。その後、南ベトナム解放民族戦線は抗米、反政府(サイゴン政府)運動に大きな役割を果たすことになった。 アメリカの直接介入と人民軍の南下(1961-1965) 農村部を中心に南領内でゲリラ活動を展開した解放戦線は着実に勢力を伸ばし、1963年1月2日ベトナム史に残るアブパクの戦い←【詳細】、←【関連・アブパク戦勝記念メダル】において初めて近代兵器で武装された南政府軍に対し正面から戦いを挑み勝利した。 1963年11月にはついに南ベトナムでアメリカの黙認を得たクーデターが決行され大統領のゴ・ディン・ジェムと弟のニューは暗殺された。 1964年に入ると解放戦線はホーチミンルート(米軍側呼称・ホーチミン・トレイル)の増強に伴い北からの補給物資を徐々に得るようになり、対民衆政策に失敗し、政情不安定なサイゴン政府は瓦解寸前に追い込まれる。 主にホーチミンルートの建設には559偵察隊←【詳細】と言われる南部出身者主体の部隊が建設し、その支援に青年突撃隊が加わった。このホーチミンルートの建設はベトナム戦争の重要なポイントとなり、のちの戦いおいてアメリカ側はいかにホーチミンルートを切断するかが目標となった。 そして米軍の直接介入の口実となった「トンキン湾事件」が発生、1964年8月7日にはアメリカ議会は東南アジア決議(トンキン湾決議)を可決。 1965年、更に解放戦線は中部高原の米軍のプレイク・クイホン基地にも攻撃をかけ多数の航空機を破壊し米軍に出血を強いた。これに対し米側はバンディ補佐官の視察団が南ベトナム訪問中というタイミングを狙った挑発行為と判断し、報復措置として部分的北爆を開始したが、この動きは逆に北ベトナム側を刺激し人民軍(正規軍)の南下と中国軍の後勤出動←【詳細】を招く結果となった。 3月8日米軍海兵隊は中部の大都市ダナンへ上陸し直接介入、戦争は長期化することになる。 |
